山本能楽堂
日本語 英語 韓国語 中国語
山本能楽堂 06-6943-9454
無料メール会員登録はコチラ
 
  トップページ 山本能楽会について 公演スケジュール インフォメーション チケット販売 教育文化事業 お問い合わせ・アクセス  
 
 
 
約650年前の室町時代に大成された能楽は、継承され続けている演劇として世界最古のものとされ、日本で最初にユネスコ世界無形遺産の指定を受けました。能はその芸だけでなく、使用される能面や装束なども美術的に優れ、見る人を引きつけます。
能楽の源となるものは平安時代から鎌倉時代にかけて栄えた「猿楽」という芸能で、室町時代には能と狂言に分化し、その後、能は室町時代に三代将軍足利義満の後援を受けた観阿弥と世阿弥の親子によって大きく発展を遂げました。江戸時代になると、能は幕府の儀式のための「式楽」とされ、各大名もそれぞれ能役者をお抱えとしていました。
明治以後、武家の手から離れた能楽は一時衰微しますが、能が新たに一般の人々に支えられて再出発する契機ともなりました。現在、全国各地で薪能が年間200回近くも催され、気楽に楽しめるものとして盛んになっています。「能は敷居が高いもの、難解なもの」と思われがちですが、能は想像を楽しむ芸能です。ご自身の心の中に情景を描き、余白 · 余韻をたのしんでください。
<大阪との関わり>
大坂城を建てた豊臣秀吉は、能を稽古して天皇や各大名の前で演じて見せるなど、非常に能を愛しました。秀吉はその様子を妻 · 北政所(ねね)に送った手紙の中に「能に暇なく候」と書いているほどです。また『明智討』『柴田』『吉野詣』など自分の事跡を祐筆(秘書)に新作させて、それを自ら演じることもしています。秀吉はまさに「耽溺」といえるほど、能に魅せられていたのです。
 
 
 
 
狂言は能と併せて 能楽と呼ばれる関係の深い芸能です。同じ猿楽と呼ばれる芸能から発祥し、今でも同じ舞台を使って演じられていますが、一 見あまり似ていないようにも感じられます。
能が源平合戦など で活躍した武士や『源氏物語』などの古典文学の世界を題材とし、奥深い美しさを表現しているのに対し、狂言ではのんきな 大名や茶目っ気のある召使い・太郎冠者、いんちきな山伏に商人、さらに動物までが登場し、毎日の生活の中で起こる身近な 様々な出来事を題材としています。
狂言の中心は笑い です。その笑いは幅広く「笑う門には福来る」という言葉に見られる祝言の笑いから、社会の矛盾への風刺などの要素までが 見られ、狂言への親しみの元となっています。

<大阪との関わ り>
今の大阪の街を 作った豊臣秀吉はたいそう能を好みましたが、狂言の稽古も行ったらしく、文禄2年 (1593)に後陽成天皇の御前で、徳川家康・前田利家とともに 『耳引』(現在の『口真似』とも『居杭』ともいわれます)という狂言を演じた記録があります。
 
 
 
 
上方舞とは一般に、近世になって大阪 · 京都におこった舞踊を総称し、特に着流し姿で屏風の立てまわした座敷の中において、静かに舞う座敷舞(地唄舞)が有名です。なお舞と踊りの違いですが、舞は旋回する静かな動きから"舞"と呼ばれたのに対し、踊りは歌舞伎芝居の大きな舞台で発達したもので、動きが大きく飛び跳ねることから"踊り"と呼ばれます。
<大阪との関わり>
文化年間(1804-1817)に始まった上方舞は、上方の流行り歌である地唄に振りをつけた地唄舞でよく知られています。米の売買で大坂を訪れた各藩の藩士たちを接待する座敷舞としても発展し、武家の嗜みであった能を原作とする「本行物」を中心に、酒席にふさわしい「滑稽物」、切ない恋心を歌った「艶物」など、さまざまな種類の舞を演目として持っています。
※地唄…地酒などと同じくその土地の唄という意味ですが、邦楽用語としては関西の唄を限定して地唄と呼んでいます。
山村流は、文化 · 文政期(1804-1830)に一斉を風靡していた歌舞伎の中村歌右衛門に振付師として認められた山村友五郎(後に舞扇斎吾斗)を流祖とする、上方舞4流派のうち最も古い流派で、花街はもとより一般の子女の行儀見習いとしても深く浸透しました。谷崎潤一郎が大阪船場の旧家を舞台として書いた小説『細雪』でも、ヒロイン妙子が山村流の有名な地唄舞〈雪〉を舞う場面があります。
 
 
 
 
文楽は人形浄瑠璃ともいい、浄瑠璃 · 三味線 · 人形が一体となった舞台芸術ですが、最初からこの三つが組み合わさっていたわけではありません。
平安時代には既に、西宮戎神社と結びついた「夷かき」という人形の芸を見せる集団が存在したと言われますが、浄瑠璃節と中国 · 琉球を経て大坂 · 堺に伝来した三味線がひとつになって約400年前に原型ができました。
17世紀半ばには京都 · 大坂 · 江戸に幾つもの浄瑠璃の流派がみられましたが、その後、大坂の天王寺村出身の竹本義太夫が道頓堀に「竹本座」を開き、豊かで斬新な表現と、的確な描写で人々を魅了し、浄瑠璃といえばこの義太夫節を指すほどになりました。竹本義太夫は作者の近松門左衛門を招き、同時代の町人社会を生き生きと描いた「世話物」を語って庶民の間に爆発的な人気を得ました。なお、竹本義太夫 · 近松門左衛門の時代には人形を一人で使っていましたが、約260年前に現在のような三人で遣うように変化したといわれます。
歌舞伎の演目の多くは文楽からの翻案であり、現在でも櫓下と呼ばれる最高位の太夫は、歌舞伎の市川団十郎よりも芸事における地位が高いとされます。
<大阪との関わり>
19世紀はじめ、淡路島出身の植村文楽軒が、大坂に操り浄瑠璃の小屋「文楽座」を設け、後に出来た「彦六座」と人気を競っていましたが、彦六座をはじめ多くの劇場が解散した後は、操り浄瑠璃の伝統を受け継ぐ劇場は「文楽座」だけとなってしまい、それ以降「文楽」が大阪を代表する芸能として、人形浄瑠璃の代名詞となっています。
 
 
 
 
落語が一芸として世に出たのは、今から約300年前、江戸時代中期と言われています。
落語とは、町民の生活や、お伽話〔おとぎばなし〕などを滑稽な話として語るもので、噺〔はなし〕の結末にオチがつくのが特徴です。
大阪・京都を中心とする関西圏(上方)中心に発達した上方落語と、江戸(東京)で発達した東京落語があります。
上方落語は、もともと屋外のざわめきの中で、噺を聞く事を目的としてない通りすがりの人々も相手にしていたので、とにかく目立つ必要がありました。
そのため、小道具や鳴り物を使うなど、東京落語よりも比較的派手なものが特徴です。
さらに、上方言葉で聞き手に語りかける話法をとり、愛嬌・サービス精神が旺盛で、常に聞き手とのコミュニケーションを大切にしています。
落語において登場人物の会話は大変重要なものです。2人の人物を登場させる場合、顔を左右にふることで2人を区別させます。
これを「上下(かみしも)をつける」と言います。また、目上の人物に話し掛ける場合は左ななめ上を向き、目下の人物に話し掛ける場合は右下を見下ろします。
このような人物の関係、あるいは距離感などを目線やしぐさでこまやかに表現します。
<大阪との関わり>
落語は、大阪では、米沢彦八が生国魂神社の境内でくりひろげた話芸が始まりだと言われています。
最初は大道芸のパフォーマンスでしたが、後には寄席が生まれ、たくましく生きる庶民自身を主人公にした愉快な物語が数多く生み出されました。
大店に暮らす大旦那や御寮人さん、若旦那、お嬢さん、番頭、手代、丁稚さん、 また長屋でにぎやかに暮らす愛すべき人びとのお話は、何より生きる知恵に長けており、お金はなくても生活を楽しむ方法がいくらでもあることを彼らは教えてくれ、現在でも人気があります。
 
 
 
 
講談は前に釈台に置き、物語を読む寄席演芸です。その元は辻講釈と呼ばれ、太平記などの軍記物を注釈を加えつつ調子を付けて語るものであったといいます。
文政年間(1818年〜1829年)には話芸として確立し、武勇伝や仇討ち · お家騒動 · 政談のほか、庶民の生活を描いた世話物や巷のニュースを講釈するなど、時代を経て題材も多様化し、さらに講談を参考にしてたくさんの歌舞伎や浄瑠璃などの作品が作られました。明治から大正にかけては立川文庫など講談を文字に起こした本が出版されて、大衆小説の元となります。新聞にも講談の速記が掲載され、人気を博していました。
<大阪との関わり>
大阪で発達した上方講談は明治から大正にかけて大変な盛況を誇り、大阪市内各地に講釈場が設けられ、人々は講談を楽しんでいました。上方講談は「太平記」「太閤記」「難波戦記」「英雄 · 大塩平八郎」「浪花侠客伝」等、大阪を舞台にした演目を多数持っています。中でも「難波戦記」では、徳川家康は堺で討死、大坂城が燃える中、豊臣秀頼公と真田幸村は軍船で薩摩へ落ち延び、豊臣再興の機会を狙うという、大阪方から見た歴史が描かれています。
 
 
 
 
浪曲は三味線を伴奏に物語を語る演芸で、明治時代初期に大成されました。
元々は古くから伝わる浄瑠璃や説経節、祭文語りが基礎になって大道芸として始まりました。その後、大阪の芸人である浪花伊助が新しく売り出した芸が大うけして演者の名前から「浪花節」と名付けられたといいます。後、「浪曲」とも呼ばれるようになります。
庶民的な義理人情に訴える作品が多く、大正時代の終わりから昭和初期にかけて浪曲が大流行し、そのころから、義理人情が主題となる話を「浪花節のような」と言ったりと、一般語となりました。話の題材としては歌舞伎や講談、浄瑠璃、またはその時代のニュースなど多くのジャンルから物語が取り込まれました。
一つの物語を節(ふし)と啖呵(たんか)で演じるのが特徴です。節とは歌う部分のことで、物語の状況や登場人物の心情で、それに対して啖呵は登場人物を演じてセリフを話す部分のこと。浪曲を勉強する時は節よりも啖呵が難しいと言われ、「フシで三年タンカで五年」という言葉が存在します。
<大阪との関わり>
「浪花節」の名前の由来になった浪花伊助が大阪の芸人であったように、その成立は大阪文化を背景としています。現在も節の種類として、関西節と呼ばれる歌い方が存在します。
 
 
 
 
お客さまをお迎えする宴席に歌舞音曲はつきものですが、日本では芸妓(関東では芸者)と呼ばれる女性の芸能者が広く活躍、そうした芸能を披露、継承してきました。芸妓の披露する芸能は幅広く、舞踊·唄·三味線·鳴り物など多岐にわたります。そうした中からお座敷独特の芸能が生まれてきました。
宴席の行われる料理屋やお茶屋の座敷へ上がれば、それだけでも「お座敷あそび」となりますが、俗にいう、いわゆる「お座敷あそび」は、座敷へ芸妓を呼んで歌舞音曲やゲームを楽しむもので、さまざまな「あそび」が伝えられています。
<大阪との関わり>
江戸時代に公許の色街が設けられて以来、大阪では4つの花街が主に賑わい栄えてきました。北新地 · 南地 · 新町 · 堀江です。時勢もあり現在では北新地と南地に残るばかりとなりましたが、伝統を今に継承しております。
大阪の神社の祭礼には、今宮戎神社の十日戎や住吉大社の御田植など、芸妓の関わるものも多く、広く親しまれていたことがうかがえます。
 
 
 
 
上映できる光学装置として映画の前身ともいえる幻燈は既に17世紀には発明され、18世 紀後半には日本にも入って来ていました。
19世紀 の初めから江戸では写し絵、上方では錦影絵と呼ばれる、鳴り物口上付きの巧妙な仕掛けの幻燈芝居が、常打ち小屋が あった程大いに流行していました。
そうした映像文化の下地のあるところに、映画が移入してきま したが、サイレント映画なので映画説明者、後にいう活動弁士が上映には不可欠でした。
<大阪との関わり>
元々錦影絵が盛んであった大阪に、明治30(1897) 年、日本で初めて映画が公開されました。このとき義太夫語りを得意とした上田布袋軒が弁士をつとめました。彼が日本 最初の活動弁士です。このように日本の活動写真=映画の歴史の始まりは大阪であったのです。
 
 
 
 
女道楽とは、女性の芸人が唄や踊り、そして間に軽妙なトークをはさんで披露する演芸です。
落語の寄席では、出演者を書いた番組表に落語の出演を黒で、落語以外の芸能を朱で書きます。そのことから落語以外の芸能のことを「色物」と呼びました。女道楽はその色物のひとつとして演じられてきました。かつては東京(江戸)でも盛んに演じられていましたが現在、東京には継承者がおらず、絶えた芸となってしまっています。
<大阪との関わり>
上方(関西)の女道楽は大正期が全盛でした。最近では吾妻ひな子(1924-1980)が昭和40年ごろから「女放談」として、「女道楽」を漫談風にアレンジして、三味線を片手に世相を風刺した話芸で人気者となりました。
その没後、後に続くものがなく耐えてしまっていたのを、復活させたのが内海英華さんです。
 
 
 
 
お稽古案内
見学会・体験講座
貸し能舞台
オリジナルグッズ
賛助会員
メール会員
 
 
 
 
 
 
   
 
   
   
   
   
   
   
   
   
 

当サイトに掲載の画像等は、著作権法により保護されておりますので、無断転載・複製は堅くお断り致します。

HOME公益財団法人山本能楽堂について公演スケジュールインフォメーションチケット販売教育文化事業お稽古案内見学会・体験講座貸し舞台

copyright (c) 2007-2010 公益財団法人 山本能楽堂 All Rights Reserved.